人魚姫の国から。

↑書いたらデンマーク行きたくなってきた。ガキのころコペンハーゲンのホテルに泊まったとき、コンパクトなくせに極めて機能的にデザインされた内装に恐れ入った覚えがある。そのホテルがえらく気に入って夜遅くまではしゃいで親にどやしつけられた記憶もある。当たり前のように機能性とデザインを取り入れて生活を楽しもうという発想が、街全体に満ち溢れていたような印象が強い。こういう発想は、まだまだ俺たちの国には不足してる要素だ。

話は飛ぶが、最近とても悔しいのは、俺は「建築家」というのは世界一カッコいい職業だと思っていたのに、一部の愚かな人間のせいでそのイメージが壊されつつあるということだ。同時に、実は極めて矛盾と苦労に満ちた職業なんだということも見えてきた。一口に建築家といっても、文字通り「建築家」と呼ばれるごく一部の誉れ高き人たちと、現実のエンジニアリングを計画する「設計士」的存在に大きく二分される。建築の世界は彼らのハイアラーキーで成り立っている。

だが、それでも建築に携わる人間はどうしようもなくかっこいい。なぜなら、彼らは人を包み込む居場所を提供しようとする者だからだ。建築にもいろんな考え方があるんだろうが、根本的な課題は人間の肉体をいかに機能的に延長するか、ということにあると思う。人間は一人では身の回りのものを雨風から守ることができないし、外部の目から内部を隠しきることもできないし、安心して寝返りをうてる寝床を子供に用意してやることもできない。肉体的機能の不足を補うものとして、建築がある。その意味で建築は人間そのものであり、表面上は無機質に見えて本質的には極めて有機的な行為だと思う。その建築の構造をおろそかにすることは人間の骨を抜くことであり、同時に生活の髄を取り去ることと同義である。

家族や友人や仲間と過ごすためのかけがえのない空間の作り手なんだという意識を忘れてしまった人に、それを今一度取り戻してもらえるようにすることが、今携わってる仕事の目標の一つだと俺は思う。それは同時に、機械的に建築の計画を審査するだけになっている審査側の人間にも言えることだ。建築は人間に本来備わっていない機能を拡張する行為である以上、それだけ周囲に及ぼす影響も大きいということを意味する。公共的な業務に携わるということは、まさにこの「影響」の調整を意味するのではないのか。ただただ毎日送られてくる書類を無難に通過させることだけが仕事ではないはずだ。


ついでに。↓に書いた映画の中には、頻繁に沖縄独特の家が出てくる。

俺も実物を中まで入って見たわけではないが、幸い竹富島で建築中の家の様子を見る機会があった。非常に開放的な造りになっている。表現しにくいが、日本古来の民家の「軒先」とは違う形で、庭先に向けてリビングを開放する構造になっている。ただ、庭と道の間には低めの石垣が設けられ、緩やかに外部と内部を隔てている。正方形に基礎を組み、その上に1階分の柱を立て、その上に四角錘になるように屋根の柱を組む。その上に家が台風で飛ばないよう、重くて赤い石の瓦を載せていく。

この家の造り方を見ていると、何も足さない、何も引かないの精神がそのまま表れているように思えてくる。家は、ただ人を安全に囲み、安心して生活させるための空間。必要な機能だけを設定する。一定レベルの社会が形成されたあとは、無理に外部に対して閉鎖的・防衛的な機能を持たせる必要もない。肩肘はらないリラックスした家づくりのあり方がそこにある。

それは田舎だから可能なんだ、という理由で片付けるべきものでもないと思うが、一方で、家屋の構造は家屋が属する周辺社会の構造と密接な関連があるのも事実なような気がする。