re:アカウンタビリティからユーティリティへ & re:short and plain

今日、とある仕事に関わったことで改めてユーティリティの問題を感じた。こないだ、コメント欄で「(にっけんの言うとおり)ユーティリティを実現する上で、アカウンタビリティは重要な手段だ」と述べたが、それは一方通行の議論でしかないことを改めて思い知らされた。

ある制度のユーティリティが仮に低いとすると、それはそもそも制度の説明が難しいのである。複雑で使い勝手の悪い制度に仕上がってると、いくら説明しようと思ってもややこしすぎて理解すらしてもらえない。今日は相手が仕事のカウンターパートだから、じっくり話を聞いてくれるが、最終的な相手は国民である。彼らは数ある政策のうちのたったひとつにじっくり耳を傾けてる時間なんてない。行政の世界の専門用語も詳しいわけではない。結局その制度を使うにはどうしたらいいのか、それを使えば自分たちにどれだけいいことがあるのか、そこが知りたいのだ。俺なら当然そこが知りたい。

そして説明者に言うだろう、
「長い説明はいらん、短く、分かり易く、さっさと言ってくれ」
と。

ここで、アカウンタビリティとユーティリティというのは相互補完的な関係にあることがだんだん分かってくる。ユーティリティなくしてアカウンタビリティなし、アカウンタビリティなくしてユーティリティなし。(うちのラスボスの決めゼリフとそっくりなフレーズやね。)どっちかが目的でどっちかが手段という話ではないのである。(だから冒頭で挙げた俺のコメントは一方通行でしかない認識だと反省した。)

そして、アカウンタビリティはshort and plainの原則を伴って立ち現れる。この原則は、ユーティリティの構成要素でもある。さらにユーティリティは、公平性の問題と裏腹であることは先日述べた。おそらく、他にも背反の関係にある価値基準は数多くあるだろう。結局、

政策立案とは極めて高度複雑な多元連立方程式を解くようなものだ

という、やや自虐的であり使い古された結論に至る。

でもこうやって堂々巡りの議論をしてても現実には何の役にも立たない。ただ一つ事実としてはっきりしているのは、そこに困っているひとがいたら悩みを聞く、役に立てるように一生懸命処方箋を書くのが俺らに課せられた究極の使命だということだけだ。


(…もう少し具体例が出せたらいいけど、それは立場上難しいのでこの辺でとどめときます。分かりにくくてすみません。のっけからアカウンタビリティ違反w)