所感

事件から1週間が経とうとしている。対応に追われているうちにあっという間に時間が過ぎ去った。

思うところを少し。

○なぜ、建築時点の行為だけ異常に手厚く縛って、建築後の状態について法はほとんど手当てをしてこなかったのか。違法な建築物を所有する行為に対する規制は、立法論としてどのような手段が採用できるのだろうか。

仕事をする中で、我が国の他法令の状況を調べてみたところ、概ね以下のような傾向が読み取れるのではないかと思った。

危険な物を所有しているだけで、違法性を問われ、直接罰則の対象となる立法例は実際にいくつか見られる。例えば、いわゆる銃刀法や麻薬取締法がそれに当たる。これらの法律では、銃砲や麻薬の所持を一般的に禁止し、その禁止に違反して所持する行為に対して直接罰則が適用される仕組みになっている。違反が問われないのは、警察官や医師など、職務上の必要性・職業上の信頼性がある人間が所持する場合や、特別に許可がされた場合など、極めて限定された場合に限られている。

一方、危険な物を所有していても、違法ではあるが罰則の対象にはならない立法例もある。例えば建築基準法がそうであるし、その他にも道路運送車両法やガス事業法、電気事業法などがある。これらの法律では、建築物や施設等の工作物、自動車など、我々の社会生活に必要不可欠ではあるが、場合によっては危険な物になりうる物についての技術的な安全基準を定めている。一定の水準に基いて適切に設計され、維持管理されたものであれば危険性を伴うことなくその物からの便益を享受することができる。このような技術的基準を定める法令では、たとえその物が水準を下回って違法状態になっても、それを所有しているからといって銃砲や麻薬のように直接刑事責任を問われる仕組みにはなっていない。このような場合には、適法性を回復するための措置を講ずるようにとの命令が行政から所有者に対して発せられる仕組みになっている。

このように、同じ「違法な物の所有」という行為であっても、それに対する法制度上の対応の仕方には大きく2通りがあることが伺える。では、このような差異が生じる理由はどこにあるのだろうか。

それはおそらく第1に、規制対象となる物の危険の度合いが異なるからである。建築物や自動車はきちんと基準に従って設計・管理がされていれば誰が所有者であっても物自体の安全性が保証される一方で、銃砲や麻薬というのはこの水準以上であれば安全であるというラインを引くことができない。本質的に危険な物なのである。建築物や自動車は安全性・危険性にグラデーションが存在する。ここに大きな差異がある。

したがって第2に、規制対象物の危険さの性質に応じて、法が保護する利益に差異がある。つまり、本質的に危険な物を所持する行為については、そのような物が社会に流通するのを確実に防ぐため、罰則によって所持を認める法的な余地を残さないようする必要があるのに対し、是正さえすれば安全性・適法性が回復できるような物を所有する行為については、所有を完全に禁止することがかえって弊害を招く可能性がある。そもそも、こうした法令では、違法行為をした人間を厳罰に処すことが目的ではなく、物の安全性さえ回復されれば一義的な目的は達成されたことになるからである。

そして第3に、絶対的に危険な物を所持する行為については、その行為が犯罪であるとして特定することは容易であるのに対し、物の安全性にグラデーションがある場合には、犯罪行為の構成要件を明確にすることができない。つまり、建築物の場合、経年劣化によって自然に水準を下回るようなケースであれば、所有者が意図的に放置したのか、それとも全く知らないうちに違法状態に陥ったのか、明確にならない。つまり、犯罪行為としての成立時点や行為の内容を特定することができない。したがって、何をもって違法な行為と認定されるのかが明らかでない以上、当該行為を捉えた罰則は成り立ち得ない。このため、建築基準法など類似の法令では、違法な物の所有者が是正命令に従わないという行為をとった時点から犯罪行為として扱う規定を置くことで問題の調整が図られている。

結局、物の安全性にグラデーションを認めた時点ですでに違法建築物の所有=罰則、という構成はありえないことになる。

そして安全基準を下回った物によって被害が生じた場合には刑事的な救済によるのではなく、民事的な救済(民法717条など)で担保されることになるので、法制度の総合的な枠組みとしてはバランスが一応保たれる形になっている。


立法論的な「模範解答」としてはだいたい上記の通りだろう。
しかし、それで現実社会の悲劇が果たして解決可能なのだろうか。


○資格制度のあり方について、改めて考えさせられる。

昭和の終わりごろから平成10年ごろにかけて盛り上がった行革の流れの中で、従来の「政府によるお墨付き」は相当程度否定されてきた。例えば、業務独占資格を置く法令の存在はまっさきにやり玉にあげられた。

業務独占をかけるということは、すなわち参入規制と市場の独占を生む。したがって市場のメカニズムが歪んで資源配分の効率性が失われる。過小供給による需要とのミスマッチを生む可能性がある。

しかしその一方で、その市場において最も重要な価値が、単なる価格だけで評価されるのではなく、安全性という評価しがたい価値であった場合、業務独占にも一定の意義が生じてくる。その業務を十分に行うことのできる専門的知識と技術力のある人間を法の規制に取り込むことで、一般消費者の情報の非対称を軽減することができるとともに、違法行為に対する厳格な対処も可能になる。

両者がトレードオフの関係にあるために、逆にいい加減な資格制度が存置されることのほうが社会的な損失が大きくなる、という可能性が明らかになったと思う。