最近

つくづく思うのは、社会を円滑に成立させる上で最も重要な価値は、お金なんかではなくて「信用」なんだという、極めて当たり前の事実である。当のお金だって国の信用があるから成り立ちうる、人間があとから生み出した制度にすぎない(=貨幣制度)。

社会の根本は人と人との信頼関係にある。民法第1条第2項が「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」と謳っているのはまさにこの原則が社会の基礎にあると考えられているからである。そんな当然の原則が、次々と、いともあっさりと、それも社会の大多数の人たちに向けて裏切られていく実例を、この3ヶ月目の当たりにしてきた。昨日もひとつ新たに、そういう流れを加速する情報が世に発表された。

法の目的が信用の確保と向上にあるとすれば、新たな法を作る手段である立法政策の本旨も、そこにある。

政府のひとつの役割が、世の中に「信用」を供給することであるとすれば、信用を確保するための最終的な手段である立法政策のあり方について、立法に携わる人間は今一度考え直す必要があると思う。

ただし、立法政策は補完的な手段であることにも注意せねばならない。法律で何でも解決するなどと思うのは大間違いである。何か問題が起きたら法改正、という行政的手法のパターンに俺はどうしても疑問を禁じえない。もちろん制度的な不備があるのであれば直すべきかもしれないが、焼け石に水的な制度改革の先例が多いのも事実である。

かといって、法の運用の範囲内で緊急救済措置を提案した今回の事件においても、措置を受ける側からの不満が提示されたように、現行法の枠内では処理し切れない問題がどうしても発生しうることもまた事実である。

そこで既存の法の中で、何が対応できて、何が対応できないのかを見極めることが必要になってくる。その上で、足りない部分を補うために、立法という作業が開始されるのである。

理想的には、立法は、大学で教えられるような法解釈から導かれる規範を単純に拡張させる作業ではなく、むしろ難題に苦しむ実社会が要請する新たな規範を発見し、それを文章で簡潔・的確に捉えて表現する作業である点で、法解釈とは全く異なる視点と手法が必要になる。

東大の公共政策大学院で立法政策の実践ゼミがスタートしたいう話を聞いたが、こういう点からするとそれはいい兆しだと思う。法の解釈と規範の発見・表現の両方が立法政策に携わる人間に求められる視点であるとすれば、法解釈論に大半を割き、法が解決していない部分については「立法の問題として解決されるべきである」の一言で済ましてしまう現在の法学教育が、少しずつ変わり始めているのかもしれない。

これが立法の理想的な姿であるが、法律による対応というのは、世に信頼の2文字を供給するという目的以外に、実はもう一つ別の意味を持たされることが往々にしてある。それは、法律というものが国会という場を経て実現するものであるがゆえに生じる現象なのであって、それが立法の理想的姿をある意味ではねじまげ、ある意味ではより現実に即した形に削りをかける作用をもたらす。

のだが、まだ確証を得ている段階でもないので、この点についてはまた日を改めて述べたい。