プロフェッショナル

↑の記事からも分かるように、専門家の存在というのはやはりかけがえのないことだと思う。子供の急な発熱のように何か困難な問題が発生したときに、的確に解決策を提示してくれるひとがいるというのは、社会生活を営む上での不可欠な人的インフラだ。

しかし、専門家が専門家としてあり続けるためには、その素質が常に適性か否か、厳しい批判の目をもって判断されなければならない。最近では教員免許の更新制が本格的に検討されるようになってきているが、そういった制度面からの適正性審査だけでは不十分で、実は専門家とクライアントの間における情報共有が最大の適正性担保システムになる。専門家の言いなりになるのではなく、解決策の道筋、考え方の根拠、対処後の報告と結果などについて十分クライアントと認識を一にし了解を得ていく作業こそが、専門家のレベルを絶えず一定以上に保ち向上させるシステムなのではないかと俺は思う。

その具体例の一つとして、医療の世界では「インフォームドコンセント」という考え方が紹介されてすでにだいぶ時間がたった。しかし、本来的にはこの考え方は医療の世界だけに関わるものではなく、あらゆる専門家とクライアントの間を規律する概念として捉えられるべきものだと俺は思っている。行政の世界で言えば「アカウンタビリティ(説明責任)」「情報公開」という考え方が存在するが、これも本質的な部分ではインフォームドコンセントと重なり合うものだと思う。

いずれにしても、専門家は何も説明せずにただ好き勝手に仕事をすればいいのでもなく、また、クライアントもただ盲目的に専門家に依存していていいわけでもないのである。依頼人と請負人の間におけるこうした問題は経済学の分野では以前からモラルハザードという言葉で表現されてきたが、もうそろそろその議論の範囲を拡大してもいいのではないか。

ということを、ここ2週間我が社と世間がてんやわんやになってる例の事件を機に改めて思った次第。

(という話を昨日レイにしたところだったので思わず小児医療に続けて書いてみた。)

偉そうなことを書いて何か恥ずかしくなったのでおやすみなさい。