Million Dollar Baby

('04米、監督:クリント・イーストウッド、出演:クリント・イーストウッドヒラリー・スワンクモーガン・フリーマン

うをー何やこの映画わ…。

ミスティック・リバーの「色んな矛盾を全く解決しないまま、無理やり川に流し込む」スタイルが、観る者の心のさらに奥深くに突き刺さるように新たな形で描きなおされている。いや、単なる焼き直しではないのかもしれない。


「彼女は自分の人生に十分満足している。しかし俺は彼女を守りたい。この矛盾を俺はどうすればいいんだ。」


腕は未熟ながらボクシングにかける意気込みはすさまじい、30歳を過ぎたプロ志望の女性ボクサー。
天才的な応急処置の腕前を持ちながら、自分の担当した選手の致命的な怪我を救えなかった老トレーナー。
「常に自分を守れ」のルールを一瞬守らなかったことでリングの上から病院のベッドの上へとシーンの動静を大転換させる劇的な演出。


こういった設定は全て、この「矛盾」を、もう顔をそむけられないくらいにはっきりと観客の前に尽き付けるためにイーストウッドが選んだ仕掛けだ。

そしてこの矛盾でがんじがらめになった転轍機を動かす役目を果たすのが老優・モーガン・フリーマン。彼の一言でイーストウッドは行動に出る。そして矛盾は何も解決されないまま、川に流し込むがことく。

観客の脳裏にこの矛盾を「叩き込む」ためにイーストウッドは「ボクシング」を採用したんじゃないかと思うくらい、強烈なパンチを食らったような感覚に陥る。



あと、ついでに言っておくと、この映画の面白いところは、実にたくさんの要素が「逆さま」に設定されているところだ。「主従の逆転」のパターンが多いと俺は思ったが、どこがどう「逆さま」なのかはご自身の目で確認してほしい。ひょっとしたら俺の勝手な思い込みかもしれん。

最近、物事の面白さを産む源は「逆接」にあるんじゃないかということにようやく気づき始めた。この映画を観てると、そのルールに忠実に従っているような気がする。逆さまの世界を何気なく提示すると人は違和感をどこか覚える。その違和感があるから「あれ?どこかおかしいはずやねんけど何がおかしいんやろ?」と思って注視する。人の注意を引き付けたら勝負の流れは製作者側に寄ってくる。あとはテーマをどう展開するかが全てになるが、その前段階で人の注意を集中させるための装置がなければどんないいテーマを描きたくても絵に描いた餅になる。その「装置」が「逆さまの世界設定」なのかもしれない。俺はイーストウッドが仕掛けた装置にあっさり引っかかったんだろうか。


んでから、いつものことだが、感覚の鈍い俺にはどうしてもこういう話に出てくる「道化役」の意味が理解できない。物語にどう有機的に絡んでるのかよく分からん。しかし、「道化役」の存在を抜きにして物語を組み立てようとするとものすごく難しくなるだろうことは何となく分かる。しかし、じゃあ…というところで答えが見つからない。


まぁいい加減適当なことを書きまくるのはやめにして、おやすみなさい。