Are We Creative?

昨日からとりあえず異常な生活の日々から解放された。幸せやー。いろいろ勉強になった1ヶ月だった。自分の得意なところ・改善すべきところが結構明確になったように思う。とりあえずデータの扱い方は1ヶ月前よりは格段によくなった気がする。

これからは、昨日までで作り上げた骨組みに、肉付け(=理論武装)をしていく作業が始まる。以前使った資料のデータ更新とオリジナルの新規資料作成が半々くらいになるが、どっちも作業のめんどくささとしては大して変わらない。むしろ過去の資料の更新(この業界では更新のことを「リバイス」と呼んでいる)のほうがめんどくさい。当時の担当者が何を考えてその資料を作ったのか、いちいち解きほぐさないといかんからである。その資料が不適切な考え方や根拠に基づいて作成されたものだと判明した場合はもっとめんどくさい。



話は変わるが、俺はこの業界は非常にクリエイティブな業界だと思う。と聞くと「んなわけあるかい!」と耳を疑うひとも多いだろうが、俺はそう思う。もう少し正確に言えば、クリエイティブな仕事をがんがんやれる可能性を秘めた職場だと思う。

この国の形なんて、お手本はどこにもないからだ。誰にも決められない。逆に言えば、あなたが思い描いた姿がこの国の形になるとも言える。何もないところに何かを作り上げる行動を「創造する」と言う。そういう活動をしている状態を「創造的」と言う。

この職場にいれば、国の形を思い描き実現させるチャンスと道具と情報が豊富に提供されている。それゆえに極めてクリエイティブだと言いたい。


だから俺はクリエイターだ。


しかし、哀しいかな、現実はそんなに甘くない。クリエイティブな可能性を秘めているにも関わらず、この業界はあまりに過去の遺産を蓄積し過ぎている。遺産の中には、もはや「宝箱を見つけた!しかし、中身は空だった…」状態のものもあれば、「宝箱を開けた!何と中身はミミックだった!」状態のものもある(要は形骸化してたり、制度疲労を起こしてて状況を悪化させてたりするものがあるってこと。)そういう負の遺産を引きずっている限り、俺たちは自由に行動できない。クリエイティブであるためには何よりも発想の自由が認められていなければならない。

となると、過去をぶっ潰せというこれまた極端な方向に行きかねない。しかし、過去から連綿と続いてきたものというのは、それなりに存在理由がある(ものもある)。先人の知恵、合理性が集約されたものとも言える。過去をあっさり切り捨てると社会にどういう歪みが生じるかというのは、明治維新以後の日本の近代化プロセスで実験済みである。国づくりというのはやはり時間的連続性にも注意を払うべき作業だと思う。


結局、温故知新の精神が重要だということになるのだろうか。うちの職場の流行り言葉で言えば「既存ストックの有効活用」ってやつである。古きよきものを残し、悪いところは潔く切り捨てる。そして新しいものに変えていく。


俺がこないだ「この業界が蓄積した過去の遺産があまりに大きすぎて、どうやれば『新しさ』を発見できるのか、皆目見当がつかない。」と書いたのは、上記のような錯綜した想いがあるからであった。


どーしたらええんかよー分からんわー…。