3月に買ったまま、まだ数ページしか読んでない『映画の授業』に、次のような趣旨の文章が書いてあった。


映画は誰のものでもない、それはただ雷や竜巻のように、観客が出会うもの、体験するものである。映画とはそもそも、徹頭徹尾、観客の体験なのである。したがって、映画が監督のものであるとか、主演俳優のものだとか、あるいはプロデューサーのおかげだとかという風に書き立てる映画ジャーナリズムは間違っている。そもそも監督などは誰にでも務まる仕事だからである。なぜなら、監督に求められる役割というのは究極的には意思決定にすぎないのであり、悪く言えばさいころを転がして物事を決定してしまってもいいくらいなのだ。


ここで筆者が言いたいのは、何も監督はバカでも務まるとかそういうことではない。これから映画を撮ろうとする若者たちへのメッセージとして、安易に「自己探しの旅」などをモチーフにするな、ということを言いたいがためだ。映画とは安易な自己探しであってはならず、ただ世界と自己を共鳴させるために自己を投げ出してみること、そこに表現の本質がある、と筆者は訴えている。そのような表現が成立している映画には監督も俳優もプロデューサーもクソもない、ただそれは作品と観客の共鳴が存在しているだけだというわけだ。


うーむ、理解したつもりが改めて自分の言葉にしてみるとやっぱ意味がわからなんなぁ笑


どっちにしてもこれでますます映画の撮影現場が観てみたくなった。どういう仕組みで映画の製作が展開されるのか、そこに働いてる力関係はどんなものなのか。どっかにチャンス転がってないかな。