コドモからオトナへ

今さっきもNHKの教育番組で、霊長類学者と教育評論家という全く異なる領域に携わる人間が、子供について対話するという企画をやってて、色々思わされたことがあるんだけど、うまくコトバにならない。

・・・んだけど俺のたどたどしく幼稚な思考を恥ずかしげもなく文字化してみよう。



実際に教育の現場に関わった経験があるだけにこの番組を見て思うところは多かった。

彼ら2人の共通の主張は、子供が「おもしろさ」を感じるチャンスをできるだけ与えてあげないといけない、ましてや子供は大人の準備段階じゃない、コドモはコドモとして生きているんだから、ということだったと思う。


子供に、いかに学ぶことがおもろいか、苦痛でない「学び」もあるんやでってことを知ってほしいという思いは間違ってなかったと思えたけど、
「あー俺はあいつらの気持ちとか悩んでたとことか何にも理解してへんかったんかな」とも思わされた。



同時に、いつの間にか自分を子供と対置している俺自身に気づく。

昔、英語の授業で教育論の文章を読むときに、N先生が
「これを読むときはオトナがコドモを見ている、その視点で読めよ?」
としきりに注意していた。
それは裏返せば、その注意がなければ俺らはコドモの側の視点でその文章を読んでしまい、理解できなくなるおそれがある、それくらい俺らはコドモだったということだ。


でも気づかないうちに、そんな注意なしにコドモを上から見下ろすオトナの視点を持つ自分になっている。

でもやっぱ俺はまだまだガキっぽいし、コンタクトはずさないまま寝て目ん玉つぶしかけるなんてしょっちゅうだったくらい精神は未熟。

オトナとコドモの二分法にぴっちりハマらない自分がここにいる。


なのにコドモを見るときは二分法のこっち側に立っている自分がいて、コドモをあっち側に置いている俺の脳細胞。


その「いつの間にかの変化」を決定付けたものは、俺個人の場合はやはり1人暮らしを始めるという通過儀礼だったのかもしれん。

名実ともに孤独の中に投げ出されて唯一確実に見えるものは自分しかいない。

その中で自立と怠惰の間をゆらゆらしてきた結果なのかも。


思い返せば、確かに中高時代に学校という小社会に対して疑問はたくさん持ってたし、ウザい先生らと思い切りケンカしたことも結構あったけど、それでも俺は「先生に気に入られる」ような「優等生」だったと思う。

尾崎豊のような、オトナとコドモのはざまで吐き気を催すくらいのもどかしさなんて覚えたことはない。

これはこれで俺の成長の足跡なのかもしれないが、今の自分にとってガキの時分の俺がどういう意味があったのか、いまいち分からなくなってきた。

どうやら俺は大学をそろそろ卒業して社会へ出る(かもしれない)ということでまた新たな通過儀礼を経験しようとしている。
自分の連続性と断絶性に決着をつけたいけどどうしたらいいのかよく分からん。


暗いネタでまとまりないけど、俺と同年代のみんななら何となくこのモヤモヤ感は分かるんじゃない?


要は、
おいみんな!!会社勤めはじめるまでの間に、もっと外に出てクソ遊ぼうや!!
ってことに尽きるんやけどなw