何かに名前をつけたなら、つけただけの責任を持ちなさい。


家を出る直前までレジュメを練り直し続けた甲斐があった。

持ち時間もオーバー、レジュメ1枚って言われてるのに外部資料2枚もくっつけた、相変わらずの逃げ口上のみ、
の報告だったのに、ありがたい評価を頂いた。

それで満足するには早すぎるが、これから俺が考えていきたい議論の入り口が少し見えたように思うし、またもっと深くつきつめて考えるべき問題がたくさん出てきたように思う。


今回はカルドーの「新しい戦争」概念を叩き台に、その妥当性・適用範囲・基準等を、先生含めてケンケンガクガクの論争になり、本郷来たばっかの3年生にとっては相当ショッキングだったのではないか。

が、今回学ぶべきことは、ひどく単純なことであり、かつ誰もが頭を抱える難題である。

すなわち、ある事象が過去から連綿と繰り返されてくる中で、そこに継続性を見出すのかそれとも変化を見出すのか、という政治学の基本的使命である。

そして、そこに変化を見た場合に、それを「新しい」とカテゴライズすることがいいのかどうか、という難問に気づかなければならない。

何かしらの変化が起こったら即座に「あ。新しいことが起こった」と認識するのは一面正しくもあり一方で誤謬のもとでもある。

むしろ、変化の前と後で何が違って何が同じままなのかということを丁寧に見て、その上でどういった要素がいくつ違っていたらそれを「新しい」と呼ぶのか、という問題にきちんと答える姿勢が要求される。

一旦「新しい」という名づけがされると、それを前提にした秩序が構築されていく、というカテゴライズの効果があるからだ。

しかし、ここまでの流れを逆転させる疑問も提示できる。

すなわち、何かが変わったというのは、単に観察者の視点が別の所へ移ったからにすぎず、あらゆる事象は厳然として昔からそこに存在してきたと考えるべきではないか?


結局、物事がそこに存在しているから人間は認識を形成するのか、それとも人間の認識によって世界の秩序が作られていく(かのように見える)のか、ほとんど哲学みたいな問いに帰着する。

・・・と読んでて「何のこっちゃ、福嶌キモっ!」ってのが普通の感覚だと思いますが、俺にとってはカテゴライズの問題を、現代国際政治という角度から眺めることができて、またその議論の渦中に思い切り飛び込めてすげぇ面白かった。