事件所感

ヨシオが日記で最近の裁判とかマスコミの報道が被害者感情に流されすぎてる云々と書いてたが、俺はオウム事件の話に限ればそれは若干ニュアンスとして違うんちゃうかと思う。(ほかの場合はそうかもしれんけど)

麻原の裁判については部分的にはそうかもしれない。今までの刑事裁判のあり方が被告人の人権を重視する面が強くて審理が慎重すぎたという点があったことは否めず、最近の裁判迅速化法などですべての裁判の1審が2年以内に判決を出すべしとなったのは、こういう従来の傾向を反省してのことだろう。
しかし、この点で確かに被害者感情重視の傾向ありとはいえても、このオウム事件は結局7年以上かかった。この裁判は法律制定以前に始まったので法律の影響は受けないが、裁判迅速化法制定という社会的背景があるにもかかわらず1審終結は昨日までかかった。
ただし注意すべきは、257回にもわたる公判が仮に通常の月1ペースで進んだとすると20年近くかかっていたはずという点。ある意味では早いペースで終わったともいえる(被害者側の努力だろう)し、常識的に見れば遅すぎるとも言える。
以上からすると一概に裁判が被害者感情重視傾向にあるとは言い切れない。むしろ、試行錯誤してる過程だと考えるべきだと思うが、データがほとんどないので机上の空論。

で、もう一つの、マスコミについては、「被害者感情に流される/流されすぎてる」を通り越してる気がする。


今朝(2月29日)の朝日39面のオウム法廷の記事を読んだひとも多いかもですが、こういう書き方をするのはどうなのと思ってしまう。その中の


(無差別テロにまで至ったのは)「被告が内部の衝動を自ら問い詰めることのできない、小心な俗物に過ぎなかったからだろう」


という記述が一番ゾクッとした。

事実を伝えることが第一任務であるはずの新聞記者が、ここまで自分の価値判断をあらわにしていいのか。記述にバランスがあるとは言えない。


一連の事件やオウム、麻原に対して誰がどう思おうと、それは内心にとどまる限り全くの自由だけど、新聞が社会に向けて何かを発信するときはどうしても制約がつきまとうし、それを無視するべきでもない。

さっきやってたみのもんたの朝のニュース番組も、司会者みのもんたのみならずゲスト3人がよってたかって麻原の悪口を言いまくっていた。自分が直接の被害者でもないのに。

オウム事件の是非についてこういうページで云々するのが適切なのか俺には分からないので控えておくが、少なくともマスコミが「国民感情」を盾にとって、事件に対する自分たちの価値判断を全面に押し出した報道をしている様子はやはり問題があると言わざるを得ない。
「オウム=悪」のレッテルを貼るか否かは視聴者が決めることであって、そのレッテルを予め貼った報道をマスコミが流すのは正しいのかどうか、もう少し考えてみるべきだと思った。

まぁ視聴者の側にも、あらかじめ解釈がほどこされた「分かりやすい」報道・議論を聞きたいというニーズがきっとあるんだろうけど。


まぁもうひとつの問題は「国民の感情」なるものの実態はなんなのか、という点にもある。うがった見方をすればマスコミがひとりで「国民感情」と騒ぎ立てて自分らの都合のいい報道を流して世論をあおっているとも言える。けど、事実としてその辺のおばちゃんらがオウムに対して何らかの感情を持っていても全然おかしくない。

だからこそ、どういう意見が世の中に存在してるかわからないのに
国民感情として許せませんよね」(みのもんた
と言い切ってしまう報道の仕方は、思考停止によるマインドコントロールをしていたオウムのやりかたとどこが違うのかと言ってしまいたいが、それはそれでまずいかな。みんなの意見が聞きたいです。ぜひ掲示板に。