「隠す」才能
昨日、戸田奈津子の才能について「短いフレーズですべてを表現する」と書いたが、より正確には
「言葉の切れ端を読み手に与えて、そこから全体を推測させる才能」
と言うべきだろう。
一言で言えば
「省略の的確性」。
明らかに俳優はもっと長いセリフを言ってるのに、字幕は「だとしたら?」とか、やたら省略されても、観客はそれで十分ストーリーを追うことができる。
確かに、字幕というのは、せりふが発話される短い時間の制約の中で、
文字を読ませてストーリー展開を追わせるのだから、
自然と省略の技術は必要になる。
しかし、その技術はセンスのない凡人にはそう簡単に発揮できるものではない。
どうも俺はこういうのが苦手らしい。
その「センス」とやらを持ち合わせていないのか。
何でやろうとずっと考えていたが、やっと思い当たったのは
俺は聞き手・読み手を信用していないからだ
ということ。
もっと言えば
自分を信用していないからだ
ということ。
「説明がこれだけだったら俺は理解できない、
じゃあ相手も分からなはずだ」
と思って自然に(親切心から?)説明が長くなる。
ほんとは一言言えばすむはずのところを、
「説明不足だ!」と思い込んでダラダラ書きすぎる。
文章は短ければ短いほど、読み手の眼球に課す負担は小さく、本質も表現しやすい。
しかし短いがゆえに、分からない人にはどうしても分からない、ということもある。
短歌や俳句はその最たる例だろう。
ただ、一旦理解の共有ができあがると、その後の展開は早い。
逆に文章が長ければ相手に重労働を課す分、説明責任をしっかり果たすことができる。
しかし長いがゆえにどこがポイントなのかが不明確になりがちであり、
徒労に終わりかねない。
ただ、こうしてみれば分かるように、
文章の長短にはそれぞれ利点・欠点かあるため、
自分が何を表現したいか
によって使い分けていくことこそが重要な点なのだろう。
短歌で表現したいことを長文でことこまかに書いてしまうと
「もののあはれ」もへったくれもない、
ということになりかねない。
逆に、わざと長く書かれた文章は、説明が凝っているはずだから、
要約してしまうと味がなくなる。
長短いずれをとるにしても、それぞれの使い分けの見極めが大事なのだと思う。
論説文などの場合は、何がポイントなのかを明示しながら説明を加えていくことが必要だろう。
その問題は文章全体の構成あるいは構造に明確な意味を持たせることで解決できる。要は論理性を明確にするためのスタイルの習得であって、これは誰でも練習を積めばできるようになる。
しかし俺が思うに、文学などは全く逆だと思う。
求められるのは「隠す」才能。
最初の話で言えば「省略」する才能。
言いたいことをわざと言わない。
相手にそれとなく推測させる。
その様子を見るのが書き手の喜び、
しかし勝手に変な解釈されると腹が立つ、
みたいな笑。
短歌は短い中に「もののあはれ」を「隠す」。
小説は周囲の情景や登場人物のしぐさに感情を「隠す」。
わざと長くかかれた文章は、その長大な構造自体に隠された意味がある。
わざと見えなくすることでいわば読者と宝探しをする、
そういう遊び心の探求が「文学」なのかもしれない。
こう書いてみると、俺が「隠す」のが苦手で何でもさらけ出してしまいがちなのは、
実はこうした「遊び心」が足りないからだ、
という風に思えてくる。
エンターテイナー性に欠けるとでも言おうか。
俺は自分で自分を楽しませるのは大の得意分野だが、
人を楽しませるとなるとことさら苦手である。
まー人には向き不向きってあるからさ。
by水戸洋平
とまぁ、戸田奈津子にはあって俺にはない「センス」とやらの正体が
何となく分かったところでこの話はおしまいにしますか。