軽い帝国(マイケル・イグナティエフ)

軽い帝国―ボスニア、コソボ、アフガニスタンにおける国家建設

序章までを読んだ時点での感想

9・11のテロを起こした連中や、帝国世界の外(アフガンや中東)にいるテロリストたちを「蛮族」(訳語)と呼んではばからない。日本人なら絶対こんな文章は書けない。
ちなみに軽い帝国というのは、いまのアメリカに対する批判。どうせ帝国として世界秩序の安定に従事しようってのなら、自分の都合で軍を出したり撤退したりするんじゃなくて、きちんと責任を全うしなさい、ということ。ここでの「帝国」は価値観の問題ではなく一国が覇権的なパワーを有しているという状況を記述する意味でしかない。だから帝国にも責任感のある帝国(重い帝国)とない帝国(軽い帝国)がある、ということになる。


最後まで読みきったあとの感想


序章で受けたラディカルな印象からは程遠いほど、慎重さと苦渋に彩られた3つのエッセーが収められていた。

いろいろ書きたいけど、うまく言葉にならない。

たぶん彼の思いは俺自身が紛争地域に足を踏み入れてみないと決して理解することはできないだろう。

しかも、同じボスニア紛争の現場を体験した人間であっても、カルドーのようにコスモポリタン的な介入政策を唱える人間もいれば、イグナティエフのように責任感ある帝国の主導のもとでの継続的な国家建設を唱える人間もいる。


俺は紙の上に展開された記号の塊と、ブラウン管から放たれる光の束と、祖父の口から漏れた音の連続でしか戦争を知らない。


ましてや、俺は生まれてこのかた、人が死ぬ瞬間を一度も見たことがない。


そこにリアルな感覚はまったく抜け落ちている。


問題は、それが抜け落ちているのが悪いのか、ではない。


むしろ俺は戦争の実体験がなくて本当に幸せだと思っている。
世界の紛争地域には俺の年齢に達する前にすでに戦場に足を踏み入れ、銃の引き金に指をかけ、人を射殺したことのある少年少女は数え切れないくらいいる。



だから、より本質的な問題を考えるならば、仮にそのようなリアルな感覚がなくても、そこへ近づこうとする迫真性をもって紛争という極めて残酷な現実に直面できる人間になれるかどうか、である。


俺が去年の自衛隊派遣に関する勉強会のリハーサルでみんなに訴えたかったのはそのことだった。


感覚の欠如を補充して現実に向き合う方法はどこにあるんだろうか。


まーユーゴとかソマリアとか旅行しに行ってみりゃ済む話なんだろうけどよ。。。