早めに起きるつもりが寝過ごしてしまい、予定が狂う。フ○ック!!

ゼミ。なーんも発言できず。クチを開いたといえば「あの、質問をもう一度・・・」だけ。英語で言えば「ぱーどん?」ってやつだ。何がぱーどんじゃ、ふざけんなボケ!!と言いたい。


今日のテーマはボスニア紛争の拡大防止の可能性。各班それぞれに分析軸を立てて臨んだ。国内・地域・国際と、市民社会・現実政治の2軸に加えて紛争の前後比較という3次元マトリクスを立てた班、時間的流れと政治・経済・文化の両軸を立てた班、防止策の条件と効果をメインに分析した我が班、カルドーの立てた議論に対して正面から疑問をぶつけた班、などなど。同じ問題でもまぁこれだけ視点がいろいろ出てくるもんだな、と改めてびっくり。


しかし共通していたのは、いずれも現実の紛争を前にして「もっと早くから対策を立てていれば・・・」という非現実的な反実仮想から抜け切れていない点だったと思う。

※非現実的な反実仮想っておかしい表現だと思うかもしれないが、具体的なリソースに基づいて仮想された反現実であれば、必ずしも非現実的とはいえない。


ボスニア紛争を契機に予防外交などの言葉が盛んに出てくるようになったのも、おそらく俺たちの認識と同じところに起因している。しかし、現実の紛争を目の前にして対策を立てるとき、そういう認識では何の役にも立たない。


先生が、
「92年5月の時点に来てしまったと仮定してください。もうセルビアクロアチアムスリムその他各勢力の間で武力紛争が始まっています。結果的に見ると、この92年5月を境につるべ落としのように状況は急速に悪化していきました。さて、この時点で、現実に市民同士が殺し合いをしている、そういう状況を前にして、あなたたちは何ができますか。」
と質問を投げかけたとき、教室が静まり返った。


カルドーは、ボスニア紛争を実際にこの目で見て、

民族浄化は独立領域獲得の「手段」ではなく、「目的」そのものなのだ、だから武装勢力同士を引き離そうとしても意味がない、殺戮の対象は対抗勢力ではなく、市民自体だから。そして、彼らの間に和平合意が生まれたとしても、(確かにデイトン合意として結実はしたものの)それが出来上がるころには、もはや民族浄化の目的はほぼ達成されてしまっているんだ

という、この問題の底知れなさを敏感に感じ取ってこの本を書いたのだろう。


彼女がこれを察知して「新しい」と名づけたその狙いは、従来との差異を鮮明にすることによって紛争への対応策を新たに考え直さなければならないと警鐘を鳴らすことにあった。


そしてまた、WW2から50年が経とうとしているときになって再びヨーロッパの地にホロコーストが繰り返されている、その忌まわしい記憶の復活に、彼女は言い知れぬ恐怖と大きな衝撃を受けたに違いない。


俺は何も発言できなかった。



武力行使の可能性をちらつかせながら国際社会が瀬戸際外交をすることで相手の譲歩を引き出すしかない。」「92年4月の時点で行ったECによるボスニア独立承認に何らかの条件付けをするべきだった。」などの意見は出た。しかし、果たしてその方法で今目の前で人が次々と殺されていく状況に対して何かできるのだろうか。


現実はそんなに甘いもんじゃない。