自己増殖する世界

この職場に来てからまず最初に抱いた問題意識は、最適な資源配分に基いた防災戦略を組み立てようというアプローチが欠けているということだったが、最近その根本的な原因がどこにあるのかがようやく分かってきた気がする。

いわば基準行政の時代がとっくの昔に曲がり角を過ぎているのではないか、という事実だ。

従来型の行政手法は、ある一定基準を設定して、その基準を守らせるために国民に法的な義務を課し、その違反に対しては是正命令や罰則による威嚇をもって対処する、というスタイルが代表的だった。

ある一定の行政分野では、その基準のグレーゾーンをめぐって解釈の対立が頻繁に起こったり、曖昧な基準を明確化するために基準を詳細化したり、技術革新によってその基準のあり方自体を見直したり、という形で、基準の数・内容がどんどん増えていくという現象が発生することがある。

それは、合法の世界と違法の世界を明確に区分するために発展していくのだが、一方で基準の正確そのものがドグマ化して、遵守させられる側にとっては理解不能であったり、遵守するための経済的コストがあまりに肥大化してしまい、結局コンプライアンスが保たれたない状態が訪れる。

「適法性」を確保するために、本当に詳細な基準が必要なのだろうか。基準というのは突き詰めれば突き詰めるほど自己増殖していく性質がある。

しかし、目を転じてみると、明文化された基準に頼らずとも、慣習法と判例法が基幹的な役割を演じる法文化が成立している社会もいくつか存在しているのである。一方で、日本の法律の数は1800を超えるとも言われている。その下に数え切れないくらいの下位法令がぶらさがっている。日本の法制度というのはある意味で異常かもしれない。しかし、ひとたび事件が起これば、制度が悪い、見直せ、もっと強制力のある法制度にしろ、というドライブが一部から沸き起こる。

この堂々巡りは一体何なんだろう。最近毎日条文を書きながらつくづく思います。もっと肩の力抜いた楽ちんな方法で適法性を確保する手段ってないんかなあ…。